全日本・食学会 ALL JAPAN FOOD ASSOCIATION

      
【開催日】
2015年11月8日(日) 《実施レポート》
【開催場所】
東京誠心調理師専門学校(東京都大田区蒲田3丁目21-4)


第2回 全日本・食サミット「江戸前~江戸・東京 未来につなぐ食文化~」イベント報告③


■A-②分科会(11:30~12:30)

「江戸前蕎麦」 堀井良教(総本家更科堀井)・小高孝之(神田まつや)

コーディネーター門上武司(全日本・食学会 理事長)

講師である堀井良教理事は、寛政元年(1789)に創業した「総本家更科堀井」9代目。

初代はもともと信州で反物を扱う商人だったのですが、殿様より蕎麦打ちがうまいので江戸で蕎麦を打てと助言を賜り、蕎麦屋を始めたのだそう。

殿様に向けたお蕎麦なので、元々高級志向でしたが、6代目のときにさらに高級にしたところ、これが受けて今に至るそうです。


もう一人の講師は「神田まつや」6代目、小高孝之さん。

明治17年(1884)の創業以来、神田で蕎麦屋を続けており、江戸前の技法を守り3本の麺棒を使ったすべて手打ちの蕎麦をお客様に提供されています。

このお二方に、当学会の理事長である門上武司さんがコーディネーターとして加わり、江戸前蕎麦についての講義を行いました。


■ ディスカッション

門上:寿司・蕎麦・天ぷらは東京に来ないとおいしいものが食べられない、という印象はありますが、大阪の新町公園という場所に「ここに砂場ありき」という石碑があります。

大阪築城のときにお蕎麦を提供したのが、始まりだという話もありますが?


堀井:蕎麦には「藪」「更科」「砂場」という「のれん御三家」があります。確かに「砂場」はもともと、大阪から出てきたと言われています。大阪築城のときにお蕎麦も提供したとは思いますが、それメインだったかどうかはわかりません。しかし、そのときのお蕎麦屋さんが「砂場」ののれんだとは言われています。


小高:江戸時代の人口は現在の東京の10分の1程度でしたが、お蕎麦屋さんの数は3763軒あったと言われています。これには屋台の数は入っていません。お米よりお蕎麦を食べる人口のほうが多かったのです。主食がお米ではなくお蕎麦でした。ちなみにお米は食べるだけでなく、相場や金融面でも使われていました。


門上:安いという理由だけではない文化的な面も何か要因でしたか?


堀井:栄養素が大きいと思います。江戸はほとんどが成人男子の町です。1日1回は食べていたと言われます。

1つの説で、アイルランドの産業革命はコロンブスが持ち込んだ南米のジャガイモだったと言われています。たんぱく含が高いものでないと人口は増えません。

江戸の人口は1600年頃には10万人。それが一気に100万人まで増えました。

それを支えたのがタンパク含の高い必須アミノ酸が多いお蕎麦。人口が増えて摂取量が増えたということは、人々の体自体もその栄養素を求めていたのだと思います。


小高:加えて「ルチン」。穀物の中では唯一、蕎麦に含まれていると言われています。

江戸時代は独身男性が多く、これは外食産業が盛んになった要因でもあります。

さらにお蕎麦は安く、普通のお蕎麦が16文、つまり現在で約250円。天ぷら蕎麦で約500円。

ちなみにお寿司は1貫8文、うなぎは200文でした。

そして現代のお蕎麦屋さんにあるメニューのほとんどが、江戸時代にできあがっていました。


門上:蕎麦粉は信州から運んでいたのでしょうか?


堀井:自分も最近まで信州から運んでいると思っていました。製粉屋さんは中野に多くあります。信州から運んできた蕎麦を中野で集積したのだと思っていました。しかし三多摩、東京でも良い蕎麦が取れたようです。例えば田無。田んぼが出来ないから田無といいますが、蕎麦はよいものが取れた。これらの地域が江戸の蕎麦を賄ってくれたようです。


小高:蕎麦は生命力が高いと言われていますが、適した土地というのがあります。東京でも種をまけば芽は出ますが、花が咲いて実を付けるのは難しい環境。昔は荒れた土地の作物というイメージでしたが、今は農家の方々もお米と一緒で、よい堆肥等を使って丹精込めて育ててくださっています。


門上:当時の蕎麦と今の蕎麦は違いますか?


堀井:新そばと違い「ひね」という保存された蕎麦は、犬も食わないと言われるほどの酷いものだったらしいです。保存状態も悪かったのでしょうが、雑菌も多く。そこで、新そばが非常に喜ばれました。

今は1年を通じてよいものができるので、新そばのよさが引き立たないかもしれません。


門上:ここで改めて、蕎麦がなぜ江戸前なのか? を教えてください。


小高:江戸前とは、江戸湾で取れた食材という意味です。もちろん、蕎麦でも魚介類を使用しますが、蕎麦屋の場合は技法が江戸前だと思います。

「うどん一尺、そば八寸」(手打の場合のうどん、蕎麦それぞれの長さの標準を示した言葉)と言って、江戸時代に現代の蕎麦のほとんどが確立しています。

蕎麦は地方発祥で、参勤交代で江戸に伝わり、江戸で試行錯誤されて今の形になりました。

この江戸時代に確立された技法を大切にしなければならないと思います。

私のお店は、そういう手打ち技法を大切にしています。それに神田は本来の下町。

下町の濃い味だしの歴史も大事にしていきたいです。

江戸の技術の進化させるべきところは進化させ、受け継ぐべきところは受け継いでいきます。


堀井:江戸の蕎麦には「抜き」があります。田舎蕎麦はカラのまま使いますが、江戸には「ぬきや」という脱穀専門の業者がいました。一握りのなかに脱穀していない蕎麦が2粒以上入っていてはいけない、という暗黙の了解もありました。脱穀というのは当時の技術では非常に難しいものだったと思います。それでも、江戸の蕎麦は“つるん”としたものにしたいという思いがあった。そういった技術は今も変わらないし、黙々と技術をつないできたのが蕎麦だと思っています。

ただ、現代は海外からお客様が来たり、海外にお蕎麦の魅力を発信したり。そういう進化はしていく必要があると思います。

基本技術は守りながらもオプションとして変化してく形です。


小高:和食がユネスコの無形文化遺産に登録され、直接的な業界への影響はありませんでしたが、海外のお客様が非常に増えました。外国の方用のお品書きをつくる等の対応は必要だと思います。外国のお客様はお蕎麦の栄養素等に非常に興味を持っておられ、お蕎麦を食べて健康になりたいと考えていらっしゃいます。

蕎麦屋で飲む「粋」を理解していただくのは、まだ難しいようですが。


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試食は、江戸時代の天ぷら蕎麦です。

昔の東京のお蕎麦屋さんの天ぷらは、すべて揚げ置きだったそうです。

揚げ置きは油がきれていて、汁になじむとともに、うどん粉で揚げていたので

煮込んでもとけない天ぷらでした。

脂っこいのがすきではない江戸っ子にも馴染むものでした。

(なので、マグロも大トロは食べなかったそうです)


今はうどん粉を使っているお店は恐らくなく、揚げ置きについては「室町砂場」さん(前述の「のれん御三家」の一つ)が使っている程度では、ということです。


天ぷらは堀井理事、蕎麦とおつゆは小髙さんという、

他では食べられないコラボレーション天ぷら蕎麦をふるまっていただきました。


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■質疑応答

Q:もりそば・かけそばなど、種類はいろいろありますが、江戸の蕎麦とは?

A:冷たい蕎麦。つけて食べる蕎麦です。

蕎麦つゆができあがってきたのが江戸中期頃。それまでは味噌だれに大根おろしを入れて食べていました。今は味噌だまりを作っている味噌屋さんは少ないですが、こうやって食べても非常においしいです。

また、最初は蒸し蕎麦でした。屋台で茹でられないので、家で茹でたものを最後に蒸してお出しする。その名残がセイロだとも言われています。

お蕎麦が流行ってきた江戸中期。それまではうどんがメインでした。

最初に蕎麦が登場したのはお寺で、というのもお蕎麦は五穀に入っていません。しかしお坊さんにとっては五穀断ちしているときも食べてよい食物で、だからおいしく食べたいという思いがあったのかもしれません。


Q:うどんは「だしの大阪・麺の讃岐」と言われてきましたが、今ではすっかり大阪でも讃岐うどんが大阪うどんを圧巻しています。蕎麦にはそのような、存在を揺るがすようなものはありますか?

A:そのような脅威はありませんが、塩でお蕎麦を食べるとか、新感覚のお蕎麦屋さんも出てきています。でも、繊細な蕎麦の香りを楽しむという根本的な哲学の部分は共通しています。


Q:やはり手打ちがおいしい?

A:もともと手打ちで、ある時代に機械打ちが発明され、機械打ちがよいという時代もありました。昭和20年代には、手打ちは不衛生だという保健所の指導もありました。

今は手打ちに戻ってきていますが、機械から手打ちに戻したのは小髙さんのお父さん。「神田まつや」の5代目です。昭和30年代、手打ちのお蕎麦屋が数件程度しかなくなったころです。

そのとき、同じ条件で手打ちと機械打ちのお蕎麦を作って食べてみたところ、手打ちがおいしかったので、手打ちを始めたのです。

手打ちが必ずしもよいということはありませんが、手打ちの伝承は難しく、今も日々修行だと思って毎日手打ちをしています。


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その他、お店のレシピは秘密ですか?という質問や(聞かれればお答えします! だそうです)、自家製粉と製粉会社の良し悪し等、プロフェッショナルな質問も出ました。

しかし、残念ながら1時間の講演時間はあっという間に過ぎ、また続きは別の機会でということでプログラムは幕を閉じました。