第2回 全日本・食サミット「江戸前~江戸・東京 未来につなぐ食文化~」 イベント報告⑨
■C-②分科会(15:15~16:15)
「初代から次世代へのメッセージ②」
脇屋友詞(Wakiya一笑美茶樓)
皆さまこんにちは。
僕は北海道生まれで、自宅は北海道大学(北大)の近くです。北大は広い敷地内でお米から果物までいろいろな農作物を作っていて、生き物もたくさんいます。そのようななかを小学校時代は登下校していまして、自分が北大の主かのように、生っているりんごを頂戴したり悪戯などをしていました。このときにさまざまな種類のりんごをかじって、どんなりんごがおいしいか・酸っぱいかなどを感じた記憶があります。このような子ども時代です。
そんな折、母が病気になりまして、父が食事を作ってくれるようになりました。しかし、父のご飯は作るのが簡単なものばかりで、あまりおいしくない。そこで自分で作らせてほしいと頼んだところ、「いいよ」と。すると、自分で作ったほうがおいしい。癖になり、冷蔵庫の中にあるものでアレンジするようになりました。
子供というのは不思議なもので、普段は悪戯ばかりしている子が、たまたま「料理を作るのが上手だ」と褒められたりすると、それがきっかけで“この子は料理に向いている”とサウンドされ始め、周りも料理人にさせたほうがいい、と言い始める。父などは「海軍の自衛隊に入ってコック長になれば、いろんな国の料理が食べられて資格も取れる」などと言っていました。
そんな中学2年の夏休み、父親の東京出張に家族全員で一緒に行きまして、今はもうなくなってしまいましたが赤坂の山王飯店に行き、初めて中国料理を食べさせてもらいました。世の中にこんなにおいしいものがあるのかというくらい感動しました。
実はそこの経営者と父が知り合いで、自分の子供を料理人にしたいと伝えたところ「本当にお子さんを料理人にしたいのなら早いほうが良い。調理師学校なんかにも行かせないで、すぐこの世界に入ったほうが良いです。」と言う。中国の重たい鍋や包丁を使うコツは手の柔らかいうちに習得するほうが良いと言うのですよ。
そんなことがあり、僕の知らないうちに中学校を出たあとは料理人になるように進路が決められていました。3月20日、僕の誕生日が中学校の卒業式だったのですが、その3日後には布団が麻布十番の寮に送られていました。昭和48年。15歳でした。
同期は15人だったのですが、ほとんどが高校や調理師学校卒で年上。このころの年の差は1歳2歳程度でも大きいものです。しかし、「この世界は学歴も年齢も一切関係ない。全員同期だから呼び捨てで良い」と言われました。年上の人からすれば頭にくるわけです。
最初は鍋洗いと皿洗いばかり。ご存知のように中華鍋はすごく重く、鍋ダコができました。けれども、知らない間に重い鍋を簡単に持てるようになり、そのうちに鍋を洗いながら「カンカン」「ジャー」という料理ができあがる音がわかるようになってきました。
それでも修業時代の最初は鍋洗い・皿洗い・野菜洗い・材料運びばかりで、嫌だなと何回も思いました。3ヶ月も経つと仲間も何名か辞めていきます。そうすると自分も辞めたくなってくるのです。ところが、ある先輩が「お前ね、人が辞めるってことはチャンスなんだ」と。まだ15歳で素直でしたので、「ああ、そうなんだな」と思いました。
そのような修行時代のなかで少しずつ悪知恵がついてきまして、なかなか料理を作らせてくれないので、朝早く行って準備を早く終わらせ、冷蔵庫の中のものを使って料理をして食べて知らん顔をする。高い食材なんかはばれちゃうのですが、そういうことをしていました。
そのうちに、「耳はウサギの耳、背中に目をつけろ」じゃないですが、中国の言葉が少しずつ分かるようになり、調理場がどういう状態かわかるようになり、3年目で自分は料理に向いているのでは? と思えるようになりました。3年目は高校に進学した、中学のときの仲間が進路を決めるころです。たった3年早く社会に出ただけなのに、仲間がすごく子どもに思えたのです。そういう経験を経て、少しずつ自分の行く道は料理で大丈夫だなと思えるようになりました。
最初の店に約5年いて、次の店で違う系統の料理を学びました。町場の料理です。すると今度はホテルで働いてみたいと思うようになりました。なぜなら、「ホテルは宴会やイベントがあっておもしろい」とホテルに行った先輩が言うのです。
そして縁があってヒルトンホテルに入りました。ホテルは町場と違いルールが厳しいです。でも社会というのはこういうものなんだとわかるようになったのがヒルトン時代でした。
ところが、ヒルトンホテルがキャピトル東急に変わることになったのです。新宿に移るヒルトンに行くか、キャピトルに残るか、意見や考えがありましたが、キャピトルに残りまして、そこでスーパーバイザーという役職を与えられました。人がたりなかったら休みでも出てこなくてはならず、朝から晩まで働いて、下の不平不満は聞かなきゃだし、上には気を遣わなきゃだし、でしたが、これを早い段階で体験できたのは良かったです。責任を持たされると人間は変わるものです。
大変でしたが、アイロンがかかった白衣を着用できるようになり、名刺も持たされ、ロッカーも今までとは違うものを与えられ、自分がすごく大人になったように錯覚して、仕事を3倍しても大丈夫なほどでした。伸びよう、伸ばそうと自分自身で思えるようになりました。
そんなとき、転機が訪れました。お客様が「ホテルを作りたいのだけど、中国料理の担当として来てほしい」と言ってくださったのです。ところが場所は立川。東京のど真ん中から1時間かけて見に行くと、何もない。原っぱのみ。だめだと思いましたね。そこで断ろうと思ったのですが、「あなたがだめだったら、東京にお店を作ってあげる」とまで言ってくださって。立川のリーセントパークホテルというところで働き始めました。
キャピトル東急時代、フランス料理のキッチンが隣でした。このフランス料理の厨房を見ていて、中華でもフランス料理のようなキレイなお皿にソースを載せて美しく、みたいなことをしてはいけないのだろうか? と思っていました。ですので、自分が料理長になり、一人でも二人でも食べられる中国料理を作ることにしました。
最初はお客様が全然来ませんでしたが、3ヶ月から半年経ったころから「あそこのチャイニーズはおもしろい。変わったことやっているよ」と言われるようになり、フランス料理よりも売上が上回るようになりました。
それでオーナーが僕に何か望みがあるか? と聞いてきたので「人を増やしてくれ」と頼みました。昇給ではなく。人を増やせば、もっと宴会を担当できるな、結婚式もできるな、と思ったからです。
こうして3年、4年経つとテレビや雑誌でいろんな方が香港ではなく立川にチャイニーズを食べに来てくださるようになったのです。最終的に、このホテルには10年いました。
次に、石鍋裕さん(※1)に誘われて横浜のホテルで働くことになりました。てっきり中国料理の料理長だと思っていたら「代表取締役」をつけると言われたのです。しかし「責任がのしかかったほうが、他の人と違うと思って頑張る」と言われ、なるほどと思いました。経営者になったら、お客様をどう呼ぶか、少ない人件費でどう売上を上げるか、ということを考える必要が出てきました。そこで思ったのが、普通の中国料理をやっていたら絶対に勝てない。ヌーベル・シノワや、ネオチャイナというのを考え、個人盛りで全部通す中国料理を考え、非常に評価していただきました。
人間は不思議なもので、歳月のなかでいろいろなことを学ぶのですが、やはり出会いというものがあり、その出会いのなかから大きなチャンスが生まれる。そしてそのチャンスをどう生かすかです。それによって、ホップステップジャンプとなると思うのですが、次の10年が来る間に、売上がどんどん上がり、自分がオーナーでやりたいと思うようになりました。そして石鍋さんと相談して、「トゥーランドット」を買い取ることになりました。続いて「Wakiya一笑美茶樓」を作り、自分でこつこつとやっていくようになりました。
そんなとき、今度は松久信幸さん(※2)と出会い、アメリカでチャリティーディナーをしました。チャリティなので、もちろんギャラはありません。それが3年続き、僕の料理の前に列が出来るようになりました。「東京から脇屋という者が来ていて、すごくおいしい料理を出すから行け」という風に、評判になっていったのです。そうするとニューヨークで挑戦してみたいなと思うようになりました。開店までに紆余曲折ありましたが、最終的にグラマーシーパークホテルという所に250席の中華がメインの「Wakiya」という名前のレストランを作りました。松久信幸さんはもちろん、ロバート・デ・ニーロさんや、有名な方々が次々に来てくださいました。ジェットコースターで上がっていくような感じでした。ところが1年半経ったころにリーマンショックがあり、一気に落ちてしまいました。自分がお店のオーナーになって続けていくという方法もあったのですが、東京にも店があり、無理だと思いましたので撤退しました。それでも約3年、ニューヨークでやりました。
しかし、そのときに学んだことは大きなつながりになりました。本当に人と人との出会いで、必ずみんないろんな形のチャンスがくる。そのチャンスをどこでどう掴んで、どこに自分の夢とそれを押し上げていくのか、そういうことだと思います。
そろそろ静かにしよう、動いちゃだめだ。と思いながらも不思議なもので、さらにやりたい、外に行きたい、変わったことをやりたいと思うようになるのです。「トゥーランドット」も「Wakiya一笑美茶樓」もあるのに、もう1軒やろうと。すると「Wakiya一笑美茶樓」のすぐ近くに大きな物件がありました。東日本大震災も来て、周りからはやめたほうが良いと言われましたが、僕は、「やろう」と決めました。改装するお金がなくて、トイレも和式のままスタートしたのですが、そういう結果が今の「臥龍居」です。まだ進化中です。今年で4年目。借金もまだまだありますが、このような状態で自分が挑戦して、借金を背負うことによって奮い立たせるものがあるんじゃないかと思います。
僕は親が金持ちではなく、中学校しか出ていません。何もないところからのスタートです。それが料理長になり、次のステップに行き、とても大変でしたが、強い信念を持ってやっていなかったらお店を存続することは出できないと思います。今も本当の意味で強い意志を持ってやっています。
この間、白衣を自分で洗濯するというフランス料理屋さんがありました。クリーニング代をお客様に還元したほうが良いと。それを聞いて、「あ、まだまだ自分は甘いな」と思いました。同じようにやろうとは思わないけど、そういう考えでやっているお店もあるんだということに気がつきました。
また、そのお店の若い子が言うには、「僕は自分で商売をやったら、誰にも負けないで成功させる自信がある」と。それだけ、そこの親方に厳しく育てられて、そういうなかで育っている人たちがいるということに感動しました。
今日、ここで皆さんに僕の話を聞いていただいて、これから先、自分のお店なり夢なり、料理長なり経営者になっていくということを考えて、思いをぶつけていっていただきたいなと思います。
僕の話は江戸前がテーマではなかったですが、全体のテーマは江戸前ということで、「塩鰹」を飾ってあります。西伊豆のほうでは昔から、この鰹に塩をしたものを干して、このようにしめ飾りをして、お正月を過ぎたらおろして焼いたり茶漬けにしたり、酒のあてにしたりしています。我々はXO醤をよく作るのですが、これは乾物から取ったうま味成分の塊です。塩鰹で作ったXO醤が今回の江戸を表している部分です。
先ほど、「なべ家」の福田浩さんに聞いたら、昔はよく塩鰹をしていたようです。今は鰹が獲れなくなったので、塩鰹も消えかけている。しかし、こういう江戸の名残を残したものを中国料理でも使うことによって、また違う江戸前なものが存続していけるのでは? と思いました。
皆さん、本日はありがとうございました。
※1 石鍋裕……神奈川県横浜市出身のフランス料理シェフ。現在、「クイーン・アリス」経営。
※2 松久信幸……ロサンゼルスに「MATSUHISA」、ニューヨークに「NOBU」など、世界各地で活躍。日本では東京に「NOBU TOKYO」がある。